阪神タイガースの名選手を振り返っていきたいと思います。
まず、最初は前監督である金本知憲 第四回です。
タイガース入団後の金本知憲
2003年に阪神タイガースの縦じまのユニホームを着て、早速の優勝!
間違いなく優勝の立役者でした。
ただ、阪神入りの恩師、星野仙一が健康上の理由により、2003年シーズン終了をもって退任した。
後任監督、岡田彰布が就任し、2004年がスタートする。
岡田の方針は前年の繋ぎのチームバッティングではなく、主砲としてチームを引っ張るだった。
その期待に応え、開幕から4番に座り、長打を重ねていく。
鉄人エピソード
長年の積み重ねの連続試合出場フルイニング出場の日本記録を8月1日に樹立を目の前に迎えた7月29日。
その日に死球を受け、左手首に軟骨損傷と診断される。
しかし、その翌日も出場し、そこでの金本の選択は、右手1本でもバットが振れるように自分のものより軽いバットを使うことであった。
久慈照嘉のバットを借りて、打席に経ち続け、右手一本で2本安打を放った。
このシーンは金本自身の引退試合でも放映されるなど、鉄人金本の象徴的なエピソードである。
2004年の成績
打率 3割1分7厘
本塁打 34本
打点 113
打点は自己最高を記録し、自身初のタイトル、打点王を獲得したのである。
2005年の成績
打率 3割2分7厘
本塁打 40本
打点 125
再び甲子園のマウンぢにの自己最高を全て更新。
ホームラン力
タイトル獲得にはつながらなかったが、本塁打40本は、阪神での記録は、日本人では、1985年の掛布雅之、外国人を含め、1986年のバース以来の大台に乗せたものであった。
1980年代は甲子園の左翼、右翼にはラッキーゾーンがあった時代。
ラッキーゾーンにより、量翼91m撤廃により、95mとなっている。
ちなみに、この年のセリーグの本塁打王は、後に、金本を追い、タイガースの一員になる広島東洋カープの新井貴浩である。
当時の広島東洋カープの本拠地は、広島市民球場、両翼91.4m。
新井の本塁打数は、43本。
たらればになってしまうが、本拠地の条件が同じであったなら、この年の本塁打王は、金本だったのかも知れないのである。
その他の記録
主要な成績ではないが、以下の記録のリーグ最高を記録している。
この傾向を見ると、主砲でありながら、チームへ貢献という金本の考え方を感じ取ることができる。
得点 120
・・自身が本塁を踏んだ回数
塁打 344
・・ヒットを1、本塁打を4などで
加算した合計数
四球 98
得点と四球は出塁に徹した結果と言えるし、塁打が多いということは長打も打っていた。
ようは、この3項目が多いことは、その状況に応じたバッティングに徹していた成果だと考えられる。
金本知憲の責任感
金本の活躍により、2005年は2年振りのリーグ優勝し、MVPも獲得する。
しかし、日本シリーズでは金本自身が不発に終わり、4戦連敗で敗退してシーズンが終わってしまうのだが。。
ただ、金本が来た、来てくれたおかげで、他の選手も意識が高くなっており、長期的に優勝を争えるチームに成長している実感が、ファンも感じており、金本への感謝を覚えつつ、終えたシーズンといえる。