スポンサーリンク

トラ戦士列伝 金本知憲(2) 広島東洋カープへプロ入り?!

阪神タイガースの名選手を振り返っていきたいと思います。
まず、最初は前監督である金本知憲 第二回です。

プロ入り後の苦難

苦労の上、広島東洋カープへ入団した金本も、プロ入り後にも試練が続く。
年下の前田智徳や江藤智らが一軍で活躍を始める中、非力なバッティングに、コーチからも転がして走れと言われていたほど。。

プロ野球選手として開花

悔しさから筋力トレーニングを本格的に取り入れ、広島生まれ、カープ生え抜きの好打者、名打撃コーチ、山本一義の指導により、3年目1994年後半に頭角を現し、17本塁打を放ち、レギュラーを獲得する。
この1994年で花が開き一変する。
翌1995年は開幕から5番打者で出場し、24本塁打でベストナインに。1996年も5番打者で打率3割に乗せ、四球77個はリーグトップ、9月には初めての月間MVPを獲得する。
1997年は、2年連続で打率3割、自身初の30本塁打を放つ。

鉄人伝説の始まり

1998年は成績は低迷。7月2日に受けた死球で2試合欠場。
しかし、それから復帰した7月10日の出場が金本が持つ連続試合出場のカウント開始の試合となる。
1999年は4月にサイクル安打を記録し、本塁打と打点で過去最高の記録を残した。
この年7月21日の試合がフルイニングの連続出場のカウント開始の試合となる。
2000年は、広島東洋カープの不動の4番として君臨した江藤智がFA制度を使い、読売ジャイアンツへ移籍し、かつ、4番に定着した前田の怪我もあり、シーズン中盤からは4番を務める。
また打撃成績としては、日本プロ野球史上7人目のトリプルスリーを達成。
本塁打が最終戦で記録し大台に乗せるというかなり厳しい中での達成だった。
2001年は1002打席連続無併殺打という日本記録を樹立する。
また、四球128個を記録。
この記録は、日本プロ野球史上5位。
しかしながら、歴代10傑が、金本のこの記録以外は、すべて王貞治が名を連ねる記録である。
王貞治が以下に勝負を避けられていたか、金本の選球眼がいかに良かったかを指し占めす快挙となった。

急転、阪神へFA移籍

2002年打率や出塁率は前年比で落としてしまう。
その年にFA権を取得。
契約更改時に、今年度の不信で減額を受け入れるものの、名目だけでもFA権に対しての再契約金が欲しいという考えを却下され、物別れに。。。
移籍の道を向かうこととなる。
その状況にいち早く反応したのが、阪神タイガース監督の星野仙一である。
「プロ野球全体のことを考えて来い」、
「俺とお前は一緒に歩むようになっている」
などと口説かれ、2003年シーズンから、阪神タイガースの一員になることになった。
タイトルとURLをコピーしました